評価の平等性

今学期のスタジオもファイナルが見えてきた。日々の作業量は増えていくばかりだが、何とか生き残れるように這いつくばりながら過ごしている。

こちらで設計の授業を受けていて印象的なのは、評価の平等性だ。自分がいた日本の大学の建築学科では、基本的には先生の好みに応じてコメントをもらえる案はもらえて、無視されるものは無視されるという評価の仕方だった。そのため、設計の授業を理不尽に感じて、設計を続けることを辞めてしまう学生が多数おり、卒業後も続ける学生は全体の1/6にも満たない。

一方で、GSDの設計の授業では全ての学生に必ずコメントがされ、評価の平等性を強く感じる。MAUDに所属する学生は実務経験があるか5年制の建築学科を卒業した上で、それでもなお高い授業料を払ってGSDで学ぼうとする学生なわけだから、そもそも学生のレベルが高く、学部の建築学科の状況とは全く違う。

一つ言えるのは、こちらの授業は課題の出し方がかなり丁寧だ。今学期のスタジオの第一課題を例にとれば、各々が3つの都市計画プロジェクトとそれに関連する1つの本を読むことを課され、読み取れる共通点を分析し図面化するという課題だった。

ある程度の縛りがあるので自由度が高いわけではない。しかし一方で、自分が何を読み取ったのかを明確に主張するのが求められる。講評会では、その主張が良いか悪いかという評価はしない。一方で、その主張からどれだけ飛距離のある議論ができるかというということが重視される。平たく言えば、作品を通した議論が盛り上がれば盛り上がるほど、良かったというわけである。

こういうプロセスを取ると、講評者の講評会に対する態度も変わる。ただ頭ごなしにこの案はだめだとか気に入らないとか言うのではなく(それも大事なポイントだが)、その案がどんな問題提起をしているのかをしっかりと分析した上で、その可能性について議論しなければならない。すると、作品に対する評価というものが自ずと平等になっていくのだ。

逆に言えば、案の良し悪しは自分自身でどんどん改善していくしかない。自分が何の問題提起をしたいのか、それが魅力的な空間に繋がるのか、明確なビジョンを示さなければならない。

この教育手法が成り立つのも学生の実力があればこそなのかもしれない。ただ、テレビ番組とかを見ていても同じような空気を感じるのも事実だ。

表題の画像が自分が第一課題に対して提出した案だが、自分のオリジナルの主張をすることほど難しいものはない。この話はまた長くなるので次回にしよう。

GSD World - ハーバード大学建築・都市デザイン留学記

建築と都市デザインをハーバード大学デザイン大学院(GSD)で勉強する川島宏起のブログです。

0コメント

  • 1000 / 1000